用語集GLOSSARY

河濱焼 かひんやき

 河濱焼は嘉永二年(1849)頃、膳所西総門付近に開窯したと伝わっています。しかしながら河濱焼をこの地で始め完成させたというのは正確ではないと私は考えています。永楽保全という人物の名工ぶりは非常に名高く、当時紀州徳川家をはじめ各地の大名や門跡寺院に招かれお庭焼の指導にあたっています。大津では円満院門跡の命により嘉永四年から安政元年(1851-54)まで製作した湖南焼が知られていますが、この河濱焼はそのプロローグのように近江は大津の地で育まれました。保全の作域の幅を見せつけるかの様に、湖南焼が染付・祥瑞写・金襴手といった鮮やかな磁器であるのに対し、河濱焼は土味を活かした温かみのある穏やかな作風が特徴となっています。

 作品に押される印は行書体の『河濱』の大小二種類有るようです。

 河濱焼の茶碗には、長生庵堀内家の不識斎が絵付け及び箱書きをしたものがみられますが、保全の共箱というものがほとんど有りません。

 なお隠居後大津の地で作られた河濱焼とは別に、文政十年から天保十四年(1827-43)の善五郎時代にも共箱甲に河濱焼茶碗と記された茶碗が複数、北三井家旧蔵で確認されています。こちらは作品に『永楽』印が押されており、明らかに大津時代のものと区別できます。また、河濱印でありながら『弘化改元吉祥日』と記された善五郎銘の共箱の茶碗も拝見したことがあります。これには蕨の絵があり保全戯画と合わせて書かれていました。この『保全』は元の名の『やすたけ』として記されたと考えるべきでしょう。善五郎家と善一郎家をうまく両立させたい思いが、何年にもわたり河濱焼の作品を試行錯誤しているところに感じられると思います。

宗三郎の共箱で河濱焼の茶碗も見たことがありますが、これは時代も少し下がり土も出来も少し劣るように思います。こちらには『河濱』の小印を用いていました。

 なかなか明らかにならない部分があり更に研究の余地がありそうです。