用語集GLOSSARY
唐崎の松(唐崎神社)からさきのまつ からさきじんじゃ
近江八景「唐崎の夜雨」で知られるこの松は、初代は持統天皇の御代に植えられました。この松のある唐崎神社は日吉大社の摂社の一つで、御祭神に女別当命(わけすきひめのみこと、女の神様)をお祀りしています。創建は松と同じく持統天皇の御代の697年と伝えられます。古来より天皇や国家の大事の災いを祓い清める七瀬之祓(ひちせのはらい)の一つとして定められていた由緒ゆかしき神社です。記録では天正九年(1581)に大風で倒れ、二代目は時の大津城主 新庄直頼公が植えたとされています。この二代目の松は大変大きく、今も多くの絵画にその姿をとどめています。大正十年にこの松は枯れますが、現在の三代目の松はその実生だそうです。因みに金沢の兼六園にも二代目の実生が「唐崎の松」として植えられているそうです。
歌枕としても有名で、松尾芭蕉は貞享二年三月上旬頃、四十二歳のとき
『辛崎(からさき)の松は花より朧(おぼろ)にて』
と詠んでいます。「湖水の眺望」と前書きにある「野晒紀行」の旅の途中、大津での句です。芭蕉は、湖面越しに「辛崎の松」を眺めて詠んだのだろうと思われます。
湖面に突き出た岬の先端に、琵琶湖を臨むような形で背の高い「辛崎の松」が立っているので、周囲の湖岸から、この景勝地を見渡すことができたでしょう。
また琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されていますが、この情景のなかにも湖面からの唐崎の松が登場しています。山崎の合戦での光秀の敗死を知り光秀妻子・一族の立て籠もる坂本城に引き揚げようとした秀満(左馬助)は、大津で堀秀政の兵に遭遇衝突しました。その際名馬に騎して湖水渡りをしたということになっています。
琵琶湖の、そして近江の歴史の中に生きてきた『唐崎の松』は現在三代目です。その姿は年々弱々しくなっており寂しい限りですが、少しでも長くその姿を残してほしいものです。
三代目唐崎の松 2021年1月13日撮影