用語集GLOSSARY

井伊宗観 いいそうかん(茶人としての井伊直弼)

  井伊直弼は彦根藩主として、そして幕府大老をつとめた宰相としての顔だけではなく、茶人井伊宗観としてもよく知られています。

 井伊直弼は埋木舎時代、茶の湯・和歌・謡曲いずれにも造詣が深かったのですが、特に茶の湯においては、その精神的バックボーンは禅の修行と密接な関係があったようです。埋木舎は直弼が青年時代を過ごした屋敷です。嫡子ではなく庶子であった直弼は、この質素な屋敷で剣術や馬術、政治、茶道、和歌などの文武両道の修養に励んだといわれています。生涯をこの屋敷で過ごさねばならないと知った直弼が、その心境を詠んだ歌「世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれておらむ心なき身は」にちなみ、「埋木舎」と呼ばれるようになったと伝わっています。

直弼は13歳の頃から佐和山の麓にある井伊家の菩提寺である曹洞宗の寺、清凉寺に参禅していました。直弼の崇高な人格や高邁な識見、そして強い精神力はまさに禅の心によって創られたのです。直弼の茶の湯というと、著書の茶湯一会集にある「一期一会」「独座観念」「余情残心」という言葉が広く知られていますが、その根底には常に禅の精神がみられます。

 直弼が本格的に茶の湯に取り組むのは、埋木舎に移り住んでからです。樹露軒での茶の湯の稽古のみならず、流派を超えて茶の湯の古書を読み、記録研究するという日々を過ごします。そして茶名としてみずからを「宗観」と名乗ることになります。(以降直弼を『宗観』と記す。)

 運命はわからぬもので、藩主直亮の世嗣として江戸へ出向いてからも宗観の茶の湯に対する関心は続きました。「茶湯一会集」では、宗観は石州流が築き上げた武士の茶の湯観を土台として、近代茶道の様々な茶の湯観を集大成し、さらに茶会での主客の一瞬の心の動きに理想の茶の湯の境地を求める宗観独自の茶の湯観を確立しました。

 また、宗観は数多くの茶道具を自ら制作しています。焼物では、埋木舎の一角に窯を設けて楽焼を行っていました。宗観は茶入、茶碗、香合、蓋置などかなりの数の作品を手がけました。また藩窯湖東焼を保護し、この時代に美術的価値の高い秀品が数多く製作されました。染付水指や茶碗など、多くの湖東焼の道具が発注された記録が残っています。茶人の手すさび、宗観手製の竹花生や茶杓も残されています。

 最後の宗観の茶会は、1860(安政7)年2月19日、桜田門外の変のわずか半月前のことでした。