用語集GLOSSARY

藤村庸軒 ふじむらようけん

 江戸前期の茶人、千宗旦の高弟で宗旦四天王、茶道庸軒流の祖として知られています。慶長十八年(1613)に久田宗栄(そうえい)の次男として生まれたといわれます。久田家は庸軒の祖父刑部が利休の妹を妻とし,兄宗利の妻くれが宗旦の娘であるところから運命的に千家とのつながりは深まっていきます。

 京都の呉服商十二屋藤村家宗佐源兵衛の養子となり(藤村家の実子という説あり)、名は源兵衛、政直、当直で反古庵と号しました。西洞院下立売に住み、はじめ藪内紹智に次いで小堀遠州に茶を学び、のち千宗旦について皆伝を得ました。

 茶道だけでなく詩文にも長じ、漢詩集『庸軒詩集』が没後の享和三年(1803)に刊行されました。庸軒の残した掛物には和歌が非常に少なく殆どが漢詩となっており、自作の茶杓や竹花入などの銘にも色濃く反映されています。また儒学においては、幼少期に菅玄同徳庵に、その後三宅亡羊に学びます。藤村家は伊勢藤堂家の御用商人であり、藤村宗佐と亡羊が共に藤堂高虎の御伽衆であった関係からだと考えられます。

 庸軒が創案した茶道具も多く残っており、茶室も京都金戒光明寺内西翁院の澱看席(よどみのせき)や北村幽庵との合作になる近江堅田居初家の天然図画亭(てんねんずえてい)などが現存しています。壮年で足元を不自由にしたと言われておりその頃好んだ茶道具や澱看席には工夫が見られます。元禄十二年に87歳で亡くなりました。

 その茶系としては伊勢藤堂家関係から伊勢に伝わった一派・次男正員が大阪の関東屋の養子となり伝え明福寺住職の観山が中興となった一派・近江堅田の山本退庵から京都の西洞院矢倉家に伝わった一派・近江堅田の北村幽庵から同じ殿原衆の辻家そして臨済宗大徳寺派祥瑞寺に復活した一派・京都の豪商大文字屋比喜多宗積から中田疎軒そして石河中軒の伝わる一派・同じく中田疎軒から中村梅軒そして大阪茨木の柿本梅軒に伝わる一派などがあります。途絶えた所もありますが現在庸軒流は日本各地で複数の派が存在し、複数のお家元によって伝えられており、庸軒流茶道としての集まりも持たれています。

 庸軒流の茶風を知る書としては、庸軒が口述したものを女婿である久須美疎安が筆記した『茶話指月集』や、孫弟子の久保又夢が記した『茶道望月集』が残っています。また庸軒研究の第一人者として知られる京都黒谷顕岑院の前住職で神戸女子大学名誉教授の白嵜顕成氏はその著書『藤村庸軒流茶書』で、大阪の庸軒流茶人で銀行家の木原久兵衛家に伝わる写本を元に正員派の茶書を出版しています。