用語集GLOSSARY

永楽保全 えいらくほぜん

 永楽保全は十一代永楽善五郎で江戸後期の京焼の名工です。

 永楽家は、今では千家十職の一家として茶陶を制作していますが、遡るとその祖先は室町時代に奈良で土風炉師として一家をなし、江戸時代に京都に移り代々西村善五郎を名乗りました。

 十代了全の時代に土風炉に加えて陶磁器の制作を始め、さらに保全が養子として永楽家に入ったことで、楽家の家業の邪魔にならない分野の様々な焼物を制作することになりました。これは幼少期に両親を亡くした了全が表千家家元の了々斎の後ろ盾を受けて、楽家了入のもとで教えを受けて陶技をみがいた為です。

 また、了全と保全の頃に永楽家と三井家の交流が始まり、三井家はその後も永楽家の最大の後援者となります。

 

 保全は寛政七年(1795)に京都の織屋・沢井家(幼名千太郎)に生まれたと伝えられています。幼少の頃に東洞院二条の百足屋木村小兵衛という陶器の釉薬や絵具を扱っていた絵具屋に奉公したのち大徳寺黄梅院の大綱宗彦のもとに喝食として入り、文化四年(1807)十二、三歳の頃、大綱和尚と木村小兵衛の仲介により了全の養子になったそうです。

 茶の湯は文化八年(1811)に久田家七代宗也のもとに入門し、陶技を粟田口の岩倉山家・宝山家に学び、土器師山梅のもとにも通っています。書は松波流、画は狩野永岳、歌書は香川景恒、蘭学を新宮涼庭・幡埼鼎にそれぞれ学んだようです。

 保全の作品は、箱書の名前と制作時期から、善五郎時代(文化十四年~天保十四年)、善一郎時代(天保十四年~弘化四年)、保全時代(弘化四年頃~嘉永七年)の三期に分けて語られます。

 

『善五郎』時代

 文化十四年(1817)に保全は了全の隠居にともなって22歳で家督を継ぎ善五郎を襲名します。この年から保全の善五郎時代が始まりますが、翌文政元年から10年程の間は、了全と共に釉薬の研究や登窯の焼成など様々な研究を行いました。文政7年ごろにはその成果が青磁写や交趾写として結実します。

文政十年(1827)の冬、表千家十代 吸江斎や樂家十代 旦入、仁阿弥道八と共に徳川治宝侯に召されて紀州に赴き、二ヶ月ほどの滞在で御庭焼(偕楽園焼)に携わった際に、「河濱支流」(かひんしりゅう)の金印と「永楽」の銀印を治宝から拝領しました。保全は、この紀州徳川家のお墨付きの印を自身の拝領とはせずに、養父了全とともに拝領したと書き残しているそうです。

 

 善五郎時代の作品は、交趾写、安南写、御本写、金襴手、染付とすでに様々な写し物があり完成度も高いです。

 保全は粟田口などの本窯に出向いて陶技を磨いたといわれ、磁器の技術も独自に習得していたといわれています。

 また保全は善五郎を襲名した同じ年の文化十四年(1817)に最初の妻を迎え一女をもうけましたが妻を早くに亡くしています。その後百足屋木村氏の娘と再婚し、文政六年(1823)には長男仙太郎(後の十二代善五郎・永楽和全)が生まれますが、この妻も2年後に亡くしています。

 文政十年(1827)には越前守藤原光寧から「保全」の名を受けています。

 天保十二年(1841)年には養父・了全が亡くなりました。

 

『善一郎』時代

 善一郎時代は、永楽保全の燗熟期といわれます。天保十四年(1843)以降、保全は隠居し善一郎を名乗りました。これは時の老中水野忠邦の天保の改革による奢侈禁止令で金襴手などの奢侈品が禁じられ、保全の作陶にも規制がかかったためで、その後水野忠邦の失脚による禁令解消から永楽保全はさらに陶技の冴える作品を制作しました。

 弘化3(1846)年近衛家に伝わる「揚名炉」を写して鷹司公より「陶鈞軒」の号を賜り、後に「陶鈞」印も拝領しています。さらに有栖川宮幟仁親王からは「以陶世鳴」の染筆を与えられました。

『保全』時代

 嘉永元年(1848)、善一郎は名義を保全に改め、箱書に「保全」と記す保全時代となります。

 保全は、弘化四年(1847)に親友である塗師佐野長寛の次男宗三郎を養子として迎え、和全の義弟としたことが彼の余生に大きな影響を与えます。保全は和全を長とする善五郎家と、宗三郎を長とする善一郎家をそれぞれにたてようとしました。しかし和全はこの意に添わなかったため親子仲が悪くなります。

 嘉永二年(1849)頃、保全は京都を離れ、琵琶湖畔の膳所西総門付近に河濱焼(かひんやき)を開窯したと伝わっています。土味を活かした温かみのある穏やかな作風が特徴となっています。

 その後陶技の研究開発に借財が重なったこともあり、嘉永三年(1850)心機一転を図り江戸に向かいます。しかし江戸では志が叶わずに、翌四年大綱和尚らの意をくみ西に戻りますが大津に留まり三井寺円満院門跡の御用窯である湖南焼を開窯し亡くなるまで制作は続けられたそうです。

 嘉永五年には高槻藩主永井直輝侯に招かれて窯を築きました。高槻焼と言われていますが、僅か数ヶ月の滞在のうちに、祥瑞・染付・呉須赤絵の写しなどを制作しています。

 高槻焼は湖南焼との連携で焼かれたと考えられています。ここで、数か月のうちに祥瑞写し、染付写し、呉須赤絵写しなどの作品を制作したと伝えられています。

 嘉永七年(1854)9月、最後まで精力的に動いた保全は、嘉永7年(1854)9月、最後まで精力的に動いた保全ではありましたが、湖南にて60歳の生涯を閉じました。