用語集GLOSSARY

  • 河濱焼 かひんやき

     河濱焼は嘉永二年(1849)頃、膳所西総門付近に開窯したと伝わっています。しかしながら河濱焼をこの地で始め完成させたというのは正確ではないと私は考えています。永楽保全という人物の名工ぶりは非常に名高く、当時紀州徳川家をはじめ各地の大名や門跡寺院に招かれお庭焼の指導にあたっています。大津では円満院門跡の命により嘉永四年から安政元年(1851-54)まで製作した湖南焼が知られていますが、この河濱焼は

  • 石山焼(與八焼)いしやまやき よはちやき

       文政7年(1828)幕末京焼の名工である仁阿弥道八(1783-1855)は紫式部で知られる石山寺の座主、尊賢僧正のもとで剃髪して仏弟子となりました。茶人でもあった尊賢は仁阿弥の指導で寺内に楽焼の窯を築き茶碗や水指などを焼いたと言われています。この言わば石山寺の御庭焼とも言うべきやきものは石山焼とよばれています。尊賢僧正のプライベートな趣味のやきものという要素が強く伝世品はとても少

  • 瀬田焼(門平焼)せたやき もんぺいやき

     瀬田焼は文政年間に、池田門平という陶工により瀬田の唐橋の東に開窯したようで門平焼とも言われています。膳所焼の初期にあたると言われる勢多焼と混同されやすいので注意が必要です。  初代は楽焼を、二代から陶器を焼いて三代続きましたが、大正時代には廃窯となりました。茶陶に始まり日常使いの器まで幅広くつくられたようで比較的多くの作品が残っていますが、それでもこの頃は見かけることがほとんど無くなりました。

  • 比良焼 ひらやき

     比良焼は琵琶湖西岸の比良山麓で焼かれたと言われています。膳所焼のように江戸初期まで遡るとも言われますが、開窯した時期も人物も窯の場所も詳しいことは何も伝わっておらず、まぼろしの焼物として知られています。比良山麓の白土が焼物に適していることを書いた江戸期の記録が知られていることや、伝世品に『比良』の印刻銘が見られることから近江ゆかりの焼物として伝わっているようです。  因みに安政四年(1857)

  • 梅林焼 ばいりんやき

     梅林焼は天明年間(1781-89)小田原伊兵衛という者が領内中之庄村梅林山(同市中庄)の土を採って開窯したと伝わっています。窯は伊兵衛一代で絶えたといいますが、後の文政(1818-30)の頃、伊兵衛の職工であった梅林金三郎という者が古器の模造に長じ梅林の印を用い再興したといいます。幕末には再び廃窯となったようですが窯跡などは確認されていません  作品は茶道具(茶碗・振出し・蓋置・鉢・香合・茶入