用語集GLOSSARY
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隅田川焼 すみだがわやき
隅田川焼(すみだがわやき)は江戸(東京)の楽陶です。文化年間(1804~18)に日本橋住吉町の骨董商であった佐原鞠塢(きくう)は向島百花園(墨田区東向島三丁目)を開き、その後文政2年(1819)頃に園内に開窯し自ら作陶をはじめたそうです。 初代の頃は隅田川中州の土を採り作ったようです。作品は都鳥の香合が有名で、他には都鳥絵付の茶碗・皿・盃等があります。また当時は百花園の土産物という位置付けだった
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杣山焼 そまやまやき
杣山焼は文化11年(1814)頃に大津の杉山吉右衛門という人が、仁阿弥道八の弟子を招き大溝藩の領内(今の高島市音羽)に開窯したと伝わっています。音羽山中の土を用いたことから音羽焼(おとわやき)とも呼ばれるようです。 一度中断しましたが、天保年間に音羽村に住む中江与平が復活させたといいます。残された箱書き等から杣山焼は大溝藩の保護を受けていたように考えられています。幕末には廃窯とな
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膳所焼 ぜぜやき
元和7年(1621)に膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯(御庭焼)として始めたものを膳所焼と言います。また、膳所藩領内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた勢多焼・大江焼・国分焼の三窯(これには諸説あり)と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼(門平焼)の総称としても用いられています。 菅沼定芳は寛永6年(1629)相模川左岸に御用窯を築いて本阿弥光悦・小堀遠州・松花堂昭乗等との交友で
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湖南焼 こなんやき
湖南焼(こなんやき)は嘉永四年から七年(1851-1854)の間に幕末の名工である永楽保全によって大津の地に於いて焼かれた陶磁器です。 解釈によって保全の大津の地での作品を総称して湖南焼と呼ぶこともあるようですが、河濱焼・三井御濱焼・長等山焼とは区別して扱うべきだと思います。それは作品の特徴に最も表れていますが、保全のこの大津の地での様々な身分の人物との関わりや短期間での住居の移転、そして窯の場
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永楽保全 えいらくほぜん
永楽保全は十一代永楽善五郎で江戸後期の京焼の名工です。 永楽家は、今では千家十職の一家として茶陶を制作していますが、遡るとその祖先は室町時代に奈良で土風炉師として一家をなし、江戸時代に京都に移り代々西村善五郎を名乗りました。 十代了全の時代に土風炉に加えて陶磁器の制作を始め、さらに保全が養子として永楽家に入ったことで、楽家の家業の邪魔にならない分野の様々な焼物を制作することになりました。