用語集GLOSSARY
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永楽和全 えいらくわぜん
永楽保全の長男で幼名は仙太郎といい、文政六年(1823)八月二十八日の生まれです。天保十四年(1843)天保の改革による奢侈禁止令から父保全が隠居し善一郎を名乗ったため二十一歳で十二代善五郎を襲名、二十五歳で酒造業木屋久兵衛の娘古宇(こう)を妻に迎えます。 父保全が弘化四年(1847)に親友である塗師佐野長寛の次男宗三郎を養子として迎えて和全の義弟とし、和全を長とする善五郎家と宗三郎を長とす
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永楽妙全(永樂) えいらくみょうぜん
永楽妙全は永楽家十四代得全室。嘉永五年(1852)に山城国乙訓郡(現在の京都府長岡京市)で生まれました。本名は悠といい千家茶道の世界では今も『お悠さん』と親しみを込めてよばれています。 得全亡き後の永楽家を明治四十二年から昭和二年まで十九年も支えましたが、善五郎を襲名することなく歴代の中に入っていません。(十七代の而全氏も妙全のことを書くときには十四代得全室と前置きをされます
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湖東焼 ことうやき
湖東焼は江戸後期に彦根で焼かれたやきものです。文政12年(1829)に彦根城下の商人絹屋半兵衛が開業し、その後天保13年(1842)彦根藩召し上げにより御用窯となり、井伊家12代直亮・13代直弼のもとで発展しました。 各地より陶工を招き、また若い陶工の育成にも力を注ぐことで、幕府や他藩等への贈答品としてのクオリティをもつ高級品の生産を目指したようです。 やきものとしては磁器が中心
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自然斎 じねんさい
自 然斎(じねんさい)(1821~1877)は岩根治右衛門といい、安政初め(1854)頃から湖東焼の絵付けを、中山道鳥居本宿(とりいもとしゅく)の旅籠『米屋』を営むかたわらはじめたといいます。 安政三年には原村の床山玉侊、高宮村の赤水、白壁町の賢友と株仲間を結成し、彦根藩普請方より窯元の免許を得て藩窯から白素地を仕入れ、民業湖東焼の絵付を行いました。藩の御用以外では『自然斎』・『誠有』・『雪香
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鳴鳳 めいほう
湖東焼の絵付師である鳴鳳は元来寺侍で、茶道や俳句、書画を嗜む風流人だったと伝わっています。嘉永年間(1848-54)までには妻子と弟の鸞栄を伴い彦根に入り城下裏新町(現在の船町)に住んだようです。 湖東焼の藩窯時代には繊細な絵付けをする絵付師達が藩に召し抱えられましたが御用窯ということから絵付師個人の銘が作品に記されることは一部の例外以外はありませんでした。 鳴鳳は銘を記すこと